万福寺地区では鈴木義治氏や才澤精一氏の父親等が炭焼きを行っていた。
十二神社の参道入口付近の山裾に炭焼き釜がつくられ、炭焼き小屋はその近く、現在の万福寺会館と才澤寛一氏のアパートが立つ辺りにあったという。
万福寺地区でつくられた炭は市場へ出荷するよりも自家用の方が多かったそうだが、隣接する古沢地区の方では炭焼きが盛んに行われて、市場への出荷量も相当あった。万福寺では炭を焼く原料のクヌギやコナラ、カシの頃合いな幹や枝を山から切り出すため、毎年十二月になると伐子きりこさんにたのんでいた。
また、自分達でも炭に適した木を切りに山へ入ったという。炭焼きの原料となる樹木は落葉樹なので、毎年の雑木林の手入れはぜひとも必要だった。
春、夏を経て雑木林に雑草がはびこったのを、二〜三日かけて刈り取る「下草刈り」を行い、山積みにされた下草は堆肥として利用した。秋は落葉を掻き集めたり、時にはクヌギ等の木を薪炭用にするため植樹したりもした。
主に樹齢の古い太い樹の枝を炭の材料として使っていたが、若い樹の場合は十五年位たってから枝を切るようにしていた。
また、黒川などで炭焼きを専業にする人達は、炭の原料となるクヌギやコナラなどの薪を買うために、万福寺に来ることもしばしばあった。
焼き上がった炭は、主に八王子方面へ出荷していたという。万福寺地区の炭焼きは江戸時代から始められ、場所によっては昭和六十年頃まで炭焼きを続けていた釜もあった。
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