「新百合山手」のまちづくり 「新百合山手」のまちづくり
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万福寺のあゆみ  
万福寺地区の永続的なまちづくりのために


まえがき
 
万福寺は天保元年(一八三○)に上梓された『新編武蔵風土記稿』の、都筑郡之六の項の「万福寺村」に、〈水田がひろがる中に、家数わずか十三軒の村〉として記載されている。万福寺村は、時代の流れとともに歩んでいくが、明治二十二年の市制・町村制施行により、柿生村に編入されて柿生村大字万福寺となり、昭和十四年に至り川崎市に編入された。

戦中、戦後の困難を経て、昭和三十二年の世田谷町田線の開通など、万福寺地域も発展をみせはじめ、昭和四十七年に川崎市が政令指定都市となったのを機に、多摩区万福寺と名を改め、昭和五十七年、多摩区が分区して麻生区となり、現在の麻生区万福寺が誕生した。

万福寺地区が大きな進展をみせたのは、昭和四十九年の新百合ヶ丘駅開設からであろう。昭和五十七年に麻生区役所が開設され、昭和五十九年には、小田急線新百合ヶ丘駅周辺の区画整理事業が完成。昭和六十年には麻生市民館や図書館が開設され、その後各種生活利便施設も整い、街は都市としての賑わいと活気をみせはじめた。

そして、現在、万福寺地区在住の地権者の方々は、新たな飛躍を遂げようと万福寺土地区画整理事業に取組んでいる。

この小冊子は、矢継早に姿を変えていこうとしている万福寺の歴史をたどり、郷土の氏神様である十二神社をはじめ、地域の伝統行事や風習、文化などを記録したものである。これからますます発展を続けていく、万福寺地区の昔の姿をここにとどめ、「温故知新」、古きをたずねて新しきを知る一助として、幾許かの貢献ができれば幸いである。

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