津久井道は沿道の人々の生活、商業活動を支えた商業路で、麻生地区の特産品である禅寺丸柿や黒川炭、絹の原料となる繭などを江戸の町まで運ぶ、重要な役割を果たしてきた。
天保元年(一八三○)江戸幕府が上梓した『新編武蔵風土記稿』(注1)都筑郡の項に禅寺丸柿と黒川炭はそれぞれ次のように記載されている。
禅寺丸柿―「柿 禅寺丸ト称シテ王禅寺村ヨリ出ルモノヲ尤ヨシトス今ハソコニモカギラズオシナベテ此辺ヲ産トス 村民江戸ヘ運ビテ余業トセリ 其ノ実ノ味スグレテ美ナリ・・・・・」。
黒川炭―「産物黒川炭 村民農業ノ暇ニハ毎年九月ヨリ焼始テ三月ヲ限トセリ黒川炭ト唱ヘテ焼コトハ当郡又ハ多磨郡ニモアリ当村(黒川村)其モトナルヘシ・・・・・」。
これ等の記述をみても、当時の市場において禅寺丸柿と黒川炭が商品として流通していた様子を伺うことができる。
禅寺丸柿は江戸市場では慶安の頃、一六四八年から一六五二年にかけて最盛期を迎えたという。運搬は馬の背に六貫目(22.5kg)入り三籠を積み、津久井道を通り江戸まで運んだとのことである。
弘化二年(一八四五)、王禅寺村の「村明細書」には、柿は村の最重要商品で年二百〜二百六十両の現金収入(隔年結果の数字なので平均百五十両位)があったという。
禅寺丸柿は都筑、多摩、橘樹郡から遠く大山付近まで栽培がひろまったが、王禅寺のものが甘味や色などに優れていたようだ。
江戸時代の中頃から生活用に炭を使うようになり、炭の原料であるナラやクヌギなどの雑木林が多い多摩丘陵の黒川、栗木、片平、上麻生、王禅寺、早野等の村でも炭の生産がはじまり、冬の農閑期に炭焼きを行い、津久井道を通り江戸の方へ出荷していた。黒川炭は土ガマで焼く黒炭で、土ガマは共同作業でつくられるものが多かった。
弘化二年(一八四五)、王禅寺村の「村明細書」には炭焼き渡世人が村内に十九人ほど居り、炭焼きは、ひとり一冬平均して薪八百束から七百二十俵の炭を焼き、江戸へ出荷して八両の現金を得る。
・・・毎年炭焼きにより村に百五十二両の現金が入ってくる。・・・
と記載され、当時の製炭業が農民の生活にとって重要なものであったことが解る。津久井道往還(注2)の中で一番隆盛を極めた物産が絹である。
もともと津久井、愛甲地方の絹は、八王子の市場を通り江戸に運ばれていたが、八王子の商人の力が強く直接市場を通らずに運ぶために、文化十年(一八一三)頃から津久井道が使われるようになった。安政六年(一八五九)に横浜港開港によって生糸の輸出が盛んになり、麻生地区でも養蚕を始めるようになり、農家のくらしを支えてきた。
この道筋は文字通り「絹の道(白い道)」と呼ばれた。
注1 現在の東京都、埼玉県、神奈川県横浜・川崎市域を含んだ地域であった武蔵国に関する詳細精確な地誌である。文化七年(一八一○)から文政十一年(一八二八)まで十八年の歳月をかけて制作し天保元年(一八三○)幕府に献上された。
注2「川崎市市民ミュージアム紀要・第六集」(一九九三年川崎市)によると、登戸から津久井に抜ける道は、一般的には「津久井往還」と呼称されている。
また「神奈川県会史・第一巻」(明治十四年神奈川県会)では、「津久井往還・南多摩郡鶴間村ヨリ津久井郡川尻村ヲ経テ同郡中野村ニ至ル」、と記載されている。
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