万福寺が位置する麻生区は川崎市の西端にあり、大小の谷と丘陵地が形成する起伏に富む地域であり、区内には多摩川の支流三沢川が、北部の黒川の地内を北流し、鶴見川の支流麻生川と片平川が区の中央部を南流している。
「麻生」という地名は、植物の麻に因むという説や、地形が川の両岸の谷間にあることから、崖を意味する地名「アズ・アス」が転訛したという説などがある。
麻生区域は『和名抄』(注1)に記された都筑(つづき)郡に含まれ、一部が橘樹(たちばな)郡に属していた。
中世には、「麻生郷」という郷名が使われるようになるが、これは律令制度の戸数を単位としたものではなく、平安時代中期より荘園(しょうえん)や国衙領(こくがりょう)の中で生まれてきた、その土地の有力者の支配する共同体を行政単位とする郷として使われた。
(近年の市制施行前まで、下麻生の不動橋より南、真福寺川の西側に「字国領」の地名が残ることから、この地域に国衙領があったことが伺える。)
麻生郷という地名は足利尊氏の所領目録に「武蔵国麻生郷」と記されているのが初見とされる。この所領目録は北条氏の一族金沢時顕の所領だったこの地が、鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏の所領になったことを表わし、その一部は鎌倉の保寧寺(ほねいじ)へ寄進されて、保寧寺は足利氏の祈願所となった。
やがて足利一族に内紛が起き、文和一年(一三五二)正月、尊氏は保寧寺の寺領内に無秩序に入りこみ乱暴を働くことを禁止した禁制を発令しているが、その中にも「武蔵国都筑郡麻生郷」の名称が出てくる。
後北条氏の時代には麻生、王禅寺、黒川、万福寺、片平、早野などの郷村名が永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』(注4)の中に見られる。天正十七年(一五八九)に豊臣秀吉が小田原征伐を発令、翌十八年には後北条氏の領国にも多くの禁制を発令した。
この禁制に記された麻生郷内の九ヶ所は、現在の王禅寺、古沢、片平、万福寺の他、麻生区に隣接する横浜市青葉区の元石川町、鉄町(くろがねちょう)、荏田、都筑区の大棚町、東京都町田市の三輪町までのかなり広範囲に渡り、麻生郷の所領域も余り明確なものではなかったようである。
注1 「倭名類聚鈔」(わみょうるいじゅしょう)の略。源順著・承平年間(九三一〜九三八年)撰進。類集した漢語の事項に音・意義を漢文で注釈、さらに和訓を施し出所を考証したもの。
注2 貴族や社寺の私有地。
注3 昔、朝廷から諸国に赴任させた地方官の治める地域。
注4 北条氏康・永禄二年(一五五九)編纂。当時の郷村名・家臣名、知行貫高を記したもの。
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