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万福寺のあゆみ  
万福寺の歴史と民俗

  万福寺会館の仏像

万福寺会館の仏像
 

十二神社の山の下、世田谷町田線から少し入り込んだ万福寺一七二番地に、地区の集会所として利用されている万福寺会館がある。
会館内には室町期から江戸期に渡る仏像が安置されている。万福寺村にはその昔、新義真言宗「医王寺」と、記録にはないが「万福寺」という寺があったと推定され、会館に残されている仏像の中には、戦国時代の戦火から、農民達がこの両寺から運び出したものが含まれているのではないかといわれている。
『新編武蔵風土記稿』の万福寺村の項には、医王寺に関する次のような記載がある。
「医王寺 除地一段 村ノ中央ニアリ新義真言宗 多磨郡坂浜村光勝寺末 金栄山ト号ス客殿四間四方 坤ノ方ヲ向フ本尊薬師 長ニ尺余リノ坐像ナリ行基ノ作ト云伝ヘリ開山ハ其伝ヲ失セリ」。
万福寺会館に現存する仏像中には、室町時代の制作とされる木造薬師如来坐像があり、風土記稿に記載されている医王寺の本尊と符号する。
万福寺にあったと思われる医王寺の本寺は風土記稿に記されているように、現在の稲城市坂浜の新義真言宗岩船山大智院高勝寺である。
高勝寺の創建は応安元年(一三六八)とされ南北朝の時代であり、その末寺として医王寺が創建されたのは、本尊薬師如来の制作年代とされる室町期との推測もできるかもしれない。
現在では医王寺も既に廃寺となっているが、伝説の寺「万福寺」と「医王寺」の流れを汲むといわれる万福寺会館の仏像群は次の通りである。

 

十二神将の修繕について
 

現在、万福寺会館内に安置されている十二神将は、万福寺会館が建つこの土地に、年代はわからないが存在したと伝えられる医王寺にあったものといわれている。
この十二神将の像は江戸時代の製作、像高がそれぞれ四〇・九センチメートル〜四七・二センチメートルから成る木造立像で、表面に彩色が施してある。中島豪一家には十二神将立像を修繕した記録が残っている。
それによると、江戸時代、明和七年(一七七○)に中島長右ヱ門と鈴木庄右ヱ門の連名で十二神将を修繕したと書いてある。

 
 

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