昭和七年度の「村勢要覧」には次のような記載がある。
「地勢は丘陵起伏し、耕地その間に点在す。柿生村を上麻生、下麻生、王禅寺、早野、五力田、古沢、万福寺、片平、栗木、黒川の十字(あざ)に分ち、これに岡上村を合して村役場をその中央、上麻生に置く。」とある。
柿生村と岡上村とで組合村がつくられ、神奈川県都筑郡に所属していたのである。組合村の村長は組合長と呼ばれ、村内総戸数は六五○戸だった。
区域別の戸数は記の通りである。
上麻生 一一一戸
万福寺 一八戸
下麻生 四四戸
片平 七九戸
王禅寺 一一二戸
栗木 四一戸
早野 五八戸
黒川 八○戸
五力田 一六戸
岡上 六九戸
古沢 二二戸
六五○戸の内、農家戸数は五五○戸で大部分は農業を生業としていた。黒川は木炭の産地、王禅寺は禅寺丸柿の発祥地、そして万福寺は農業が盛んな地区であった。
明治三十三年(一九○○)に産業組合法が設立。万福寺では明治四十一年(一九○八)に、鈴木伊三郎氏を組合長に万福寺信用購買組合が設立された。
柿生、岡上地区では殊に養蚕業が広く行われ、大正七年(一九一八)には古沢・五力田、麻生、岡上、黒川・栗木に四つの養蚕組合が設立され、後に万福寺も加わった。
しかし、昭和二年(一九二七)四月の小田急電鉄の開通や、昭和七年(一九三二)前後からの生糸価格の崩落等により、この地の自給自足経済も漸次下火になり、養蚕業は、蔬菜・果樹等の園芸作物に変化していった。昭和十八年(一九四三)万福寺地区では農業団体法に基づいて農業会を設立、更にその下部組織として農事実行組合が設立された。
戦後になって昭和二十三年(一九四八)七月、柿生農業協同組合が設立され、昭和二十五年(一九五○)には川崎市農林課より、万福寺人参の前身である滝野川人参の品種改良と採取事業が、柿生農協に参入していた万福寺の農家に委託されている。
昭和二十九年(一九五四)、改良された人参が農林大臣賞を受賞して、通称、万福寺人参と呼ばれるようになる。昭和三十年(一九五五)十二月に至って、万福寺人参の採種のため、組合員二十名、出資金八千八百円で万福寺採種組合が設立され、初代組合長に鈴木茂氏が任命された。
また、万福寺地区の養鶏は昭和二十年代に盛んになり、その頃地区内には十五、六軒の養鶏農家があって、一軒の農家ごとに百羽養鶏を目標としていた。
昭和二十三年の秋、柿生養鶏組合が結成されると、同年、万福寺も組合に加入した。その後四、五年を経過して組合の活動は一時休止となるが、昭和三十年に、柿生地域の中でも養鶏が盛んだった万福寺と岡上を中心に、他の村も参加して柿生養鶏組合が再結成された。
昭和四十三年(一九六八)まで続いた柿生農協は、昭和四十四年(一九六九)に菅、稲田、生田の各農協と共に合併、新たに川崎市多摩農業協同組合となった。
柿生農協は多摩農協の柿生支店となり、その下に十一の支部をもっていた。支部の構成は大字の上麻生が東部・大谷戸・山口の三支部に分れ、他は真福寺、万福寺、古沢、五力田、片平、栗木、黒川、岡上の八支部となっていた。
各支部の地域では、住宅化の進んだ地区と農業振興地区とに二分されていた。全国に名を馳せた万福寺人参も昭和三十年代に入ると、栽培地に宅地造成など都市化の波が押し寄せて姿を消していくことになった。昭和四十五年(一九七○)四月には万福寺採種組合を解散。
その後は、万福寺生産組合として、新たなスタートを切ることになる。
この生産組合が、セレサ川崎農業協同組合万福寺支部として現在に至っている。
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